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珍奇男と宮本浩次 [つれづれ]

【珍奇男】という作品は不思議な魅力のある曲だ。
「私を見たならお金を投げて欲しい」。
「世間の義理にしばられておっとっと」。
などと、卑下まじりに主人公が右往左往するさまが、
ちょっとしたコメディになっているからである。
世間に対して引け目を感じながら、
にも関わらずどこか威張り散らして傲然としている。
それは、わりと役者とか画家とか、あるいは音楽家全般に通じている。
だから、「珍奇男」=宮本浩次という図式は連想しやすい。
しかし、実際にはそれは聞き手のまちがいであると、
宮本浩次はどこかのインタビューできっぱりと否定していた。
「珍奇男」のモデルは音楽業界のプロモーターのような人だというのだ。



エレファントカシマシのファンには、
エレカシの楽曲のほとんどは私小説作品に聞こえるという、
悪い癖がある。
それは、宮本浩次が敬愛する作家が、
太宰治、永井荷風、森鴎外のように自分をモデルにした作品をつくり続けた、
いわば私小説作家の系譜に連なるからである。
しかし、それら日本文学の私小説作家に強く憧れていたエピック時代にあっても、
作品全部が私小説的でないことは明らかだろう。
とくに『生活』という作品では妻帯者の歌も書いているし、
あるいは【珍奇男】も自身を描いた歌ではないのである。
ある作家のファン、あるアーティストのファンというのは、
生中(なまなか)に作者の知識があるだけに、大きな誤解をときにやってのける。
「珍奇男」=宮本浩次という図式もそのひとつである。

誤読もひとつの正しい解釈である。
そういうことを文学の作品論のなかでは教える。
作者の意図したことがそのまま伝わることが必ずしも作品の解釈ではない。
作品のなかに書かれていないことが想像され、
それがひとつの「(誤解のなかの)正解」として定着していくことも、
芸術の愛されかたなのである。
「君を愛している」という一文が持つ意味が、
正方向なのか、あるいは逆方向なのかを決めるのは、
作者ではなく読者である。
作家は一度世に放ってしまった作品について、
自分の思っていたとおりの意図で解釈させることは、
十中八九、まず不可能なことである。
エレファントカシマシにとってその代表的な誤解が、
《「珍奇男」=宮本浩次》説なのである。

ただし、私は《「珍奇男」=宮本浩次》説について、肯定派である。
宮本浩次の作品解説を読むまで、そう誤解していたという、
悪い読者としての惰性もあるが、
それ以上に《「珍奇男」=宮本浩次》説の方が理解としてしっくり来るからである。
「私は会社員です」「私はプロモーターです」「私は裏方です」
のような、明らかに宮本とは異なる説明も作中になく、
またまったく種類の異なる職業人でもないので、
作者がどう説明しようと、そう解釈されてもおかしくない道理はある。
むしろ、書いてない実モデルまで、あの歌詞から到達するのは至難のわざである。
そこで思ったのだが、《「珍奇男」=宮本浩次》説は後付けであっても、
きっと正解なのである。

「珍奇男」は戯画化されたギョーカイ人の姿が歌われているのだが、
それはどこかでコンサート・ステージを見せて入場料を取る、
ミュージシャンの姿と二重写しになる。
そこで、宮本浩次が歌うかぎり、「珍奇男」は宮本浩次の姿に似るのだ。
そして、卑屈さもふくめた等身大の説得力として、《「珍奇男」=宮本浩次》となるのだ。
もちろん、宮本浩次が「珍奇男」のような鼻持ちならない人物でないことはあきらかである。
ただ、誰しも自分の内面に、「珍奇男」のような一面を持ち合わせており、
それが宮本浩次の歌う【珍奇男】のなかに表現されているという意味で、
これ以上自戒を促す作品もないのである。
そのうえ、不思議なことに、卑屈な「珍奇男」 はどこやら愛らしく、そして不敵に思える魅力がある。
それもこれも、本来まったく関係のない宮本と「珍奇男」が、
演奏されるごとに宮本のなかの「珍奇男」の一面と結びついて、
演技以上にリアルに降臨してくるようになったからに違いない。

宮本は件(くだん)の作品解説で、
「珍奇男」のモデルが自分だとよく誤解されるので、
当初すごく困惑したけれど、最近ではそれも有りかなとおもうようになった、
というような趣旨の発言をしていた。
それはおそらく、
作品の制作意図を超越した聞き手の理解に、
作者自身が説得されて思い直した、ということがあるのだろう。
自分ではない別人をモデルにした作品が、
演奏するうち、聞き手に誤解されるうちに、
本当に自分の血肉となりペルソナ(人格)のひとつになったということである。
宮本浩次いわく、いけすかない人物だった「珍奇男」。
それが自分の血肉となってファンから愛されるキャラクターになったのだから、世の中は興趣ぶかい。

インターネット上の個人ホームページやブログ上で、
「珍奇男」を名乗っているエレカシのファンは数多い。
それらのファンがこのいきさつを理解して、
つまり実モデルが宮本浩次ではないことを知って、
「珍奇男」と名乗っているのかどうか、それは個々別々だろう。
その多くは、おそらくいきさつを知らないで名乗っているのだとは思うが、
知っていて名乗っているのだとすれば、
どんな信念があって名乗り始めたのか、いきさつを聞いてみたいものである。
「珍奇」というのは一般語であるが、「珍奇男」は宮本浩次の造語である。
ゆえに「珍奇男」で検索するとエレファントカシマシ関連の記事を検索できるキーワードになる。
しかも「珍奇男」という語は、どこかしら作者・宮本浩次を超えて、エレファントカシマシ自体とも重なりつつある。

宮本浩次と珍奇男、あるいはファンと珍奇男の関係性が、
いつも不思議な奇縁のようで、面白く思っている。
ファンは宮本浩次が大嫌いだった「珍奇男」を歌う、
宮本浩次に憑依した「珍奇男」が大好きなのである。
そして、そうして愛されるあまりに、
大嫌いだった「珍奇男」の役柄を演じることが好きになった宮本、
この不思議なねじれ現象は、誤解が必ずしも悪ではないというひとつの好例と考える。
(了)

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